道と書いてトオルと呼ぶ友人がいる。
高校からの付き合いで、お互い写真のミチを志し、夢の展望を学校傍の防波堤で語り合った大切な友人だ。
当時。不登校気味のオレ達を気にかけてくれていた、担任の先生が一眼レフカメラを交互に使えと貸してくれた。 そして国語を受け持っていた若い女性教師が、撮ってきた写真や書き溜めた詩を肯定的に批評してくれた。 もちろん写真も詩も、独りよがりの青臭いものだったが、(好きな)大人からの評価が嬉しく、オレたちは進む先行きを決めた。
道がどう思っていたかはわからないが、オレは道に対してコンプレックスがあった。 とってつけたような安いドラマチックで飾るオレの作品と違って、道の写真や詩にはちゃんと血が通っていた。そう感じていた。
卒業後。オレ達は福岡へとでた。学校は違ったが、お互い写真を学ぶために。 福岡に拠点を移してから会う機会は少なくなった。 オレがグループ展やアートイベントに出展すれば、道が顔を出してくれて、道がライブをやる知らせを受ければ、たまに観に行く程度。 道はかねてより趣味でやっていた音楽にどっぷり浸かって学校そっちのけでロックンロールしていた。
会えば、アートとは?レッチリって超イカす!大丈夫。未来はオレ等の手の中!! いかにも、とっぽく、でも嘘偽りなく笑いあった。
道が写真をやってなかろうが、あの笑顔を見れば、そんなことはどうでも良かった。
オレは東京にいき、スタジオに就職し写真のミチをつづけた。道は福岡でロックンロールしつづけた。
道は、「オレはダメやったけど、オマエは絶対いける!間違いない!!」と送り出してくれた。
それから時が経ち6年後。結婚を機に福岡へと戻ってきたオレは、東京での6年間ですっかりクリエイトの迷路にハマり込み、写真から離れて2年ほど派遣社員をやった。
その間、道が福岡にいることは知っていたが、訪ねていけなかった。 期待を寄せてくれている道への負い目があったからだ。
サラリーマンもまんざら悪くないと日々のルーティンをこなしていた矢先、子供を授かった。 派遣先からは中途採用の話をもらったが、悩んだ結果、写真の世界に戻った。 0からのスタート。背水の陣だった。
友人達の力添えのおかげで、フォトグラファーとして独立宣言した翌月からレギュラーがつき、食うに困ることはなかった。 良き友人がいたこと。運が良かったこと。本当に奇跡みたいだった。
すぐに鼻がのびる先天的ピノッキオ体質のオレは、自信を持って道のもとを訪ねた。 当時も思うところがあったが、今はハッキリといえる。オレはイヤな奴だ。
ある夕方。博多駅で待ち合わせていると、ボロボロのTシャツにでっぷりと肥った体を揺らしながら、胸元を隠すほど伸びたバサバサの髪の毛と顎鬚をなびかせながら、道が近づいてきた。 あまりの変わりように驚いて目を丸くするオレに、道は「マジでうちにくる?」「うち散らかっとるけど、驚かんでね。」と申し訳なさそうに笑った。 「全然、問題なし!」酒や食い物を買い込み、マンション前。「マジでビビらんでね。」「オーケー余裕!」、、狭く無機質で陰気なエレベーターから降りて、「ふたつ隣のババアが気が狂ってるからうるさいんよ。」とかなんとか緊張感をもたせるようなジョークともなんとも取りがたいことを言いながらカギを回し、「さっ、散らかってるけどどうぞ。」と招かれた。 「おじゃましま・・・」想像の遥かうえいく散らかりようだった。散らかってるというより、色んなモノが積もり積もっていた。 オレは押されるがままに宿主よりも先に玄関に足を踏み入れたことを後悔した。 この玄関らしき場所で靴を脱ぐのか、はたまた欧米化しているのか、迷った挙句、靴を脱ぐそぶりを見せると、なにも言われなかったので、真っ暗な室内を奥へと進んだ。 やたらと力んだ足裏に、塩化ビニールや段ボールや様々なゴミがあたり、ガサガサと鳴った。
よく見ると、普段の通りミチが踏み固められて、轍になっていた。
「なぁ、道。ミチってのはこうやって出来ていったんやな。」「オレは今、原初の体験をしとるわ。」というと、道は爆笑した。 度を過ぎると何事も笑えるもんで、オレもゲラゲラと笑った。
灯りをつけると気が滅入るから・・・そういって何時も無灯の暗がり。
外から入り込むネオンと、DVD鑑賞とスピーカーの替わりとして使っている壊れたTVからの微弱なブルーライトが積みあがるゴミの山をほのかに照らし、まるでゴジラか現代アートの様相。
1Kの狭い部屋の、一人用の万年床。そこが道の生活スペースだった。 他は、様々なゴミが将棋崩しのバランスで所狭しと積みあがっている。 とくに、万年床の窓側は、どうしたらこんなに積みあがるのかというほどゴミが高く積んである。 ゆうに1メートルはある。 道いわくカーテンの代わりだそうだ。
「いつかゴミに埋もれて窒息死しかねんから、カーテンは買おうぜ。」 切なる願いを伝えたが、知るかぎりカーテンはつかずじまいだった。
TVのなかでしか見たことのなかったゴミ屋敷。まさにそのゴミ屋敷でオレは今、親友と酒を酌み交わしている。 1時間前には想像もしなかった事態。しかし何事も慣れるもんで、シメシメを通り越してジメジメ。ネバネバの一歩手前の万年床のうえでリラックスして胡坐をかいてる自分がいる。
ただ、道にしか選別できないゴミの山から引き抜く食い物には手を付けれなかった。そして、トイレ・風呂場の水回りはここに記すのは憚れるホラーっぷりだった。
道は浴びるように強い酒を飲み、「オマエは凄いよ。」「夢を叶えてる。」「今も戦ってる。」と繰り返し言った。 オレは心の隅にあるネガティブな感情をアルコールで痺れさせて、口では「そんなことねぇよ。」なんて言いながら、満たされていた。 もう一回いう。オレはイヤな奴だ。
段々と空に青みがさしてきた頃、TVには道の大好きなQueenのライブDVDが流れていた。 オレはそのゴミ山のなかで道のポートレートを撮った。
朝7時。帰りしな、道は「来てくれてありがとう!」と笑った。 「こちらこそ。楽しかった!またね!!」
それから何か月後かにもう一度、一緒に酒を呑んだ。 今度は、博多駅付近の公園で。
30歳近い大人が、長々とじつに6時間は星空のしたで、酔っ払い、世間体を取っ払い、語りあった。
夜風にまじる小雨も心地よく、温かい胸の内。
互いに心にしまってきた秘密を打ち明け、グチグチと弱音を吐き、そして慰めあった。 傷の舐め合い。ふがいない。と言われたら返す言葉もない。 たぶんオレも道も、自らが信じきれていない自身の存在を肯定して欲しかったのだ。
その夜から数か月後。道は地元に帰った。 長いこと続けてきた音楽を辞めた。
連絡をくれたのが、引っ越しの前夜だったため、電話越しでの別れとなった。 突然のことで驚いたが、会うたびに肥っていく道の健康面を心配していたこともあり、きっとそれが最善のミチだと思った。
道が地元に戻って数か月経ち、一通のメールが届き、そこには、「もう一度、最強をめざしてみる」とあった。 何処へむかうミチのスタートラインに立っての発言かわからなかったが、その前向きなメッセージが嬉しく、オレも力が湧いた。
しばらくたって、夏休み。地元へ帰省した際に、道にあった。 待ち合わせした某レンタルショップ兼書店の駐車場で待っていると、よれたTシャツに短パンの相変わらずのいでたちの道が現れた。 ただ、体重が三桁に届きそうだった力士体型は一変して、高校のころを彷彿させる締まった身体になっていた。 劇的ビフォーアフターぶりに、開口一番「すげー痩せたやん!」というと、仕事がハードで自然と体重が落ちていったのだと説明してくれた。 道は、飲食のミチに進んでいた。
「おぼえがわりぃから、毎日先輩から怒られてシバかれて、毎日泣きよるわ。」 そう語るのを聞いて、高校の頃、鋭利な気を放って狂犬のような眼つきで人を遠ざけていた道を思い出し・・・色んな感情がない交ぜになって胸を詰まらせた。
お互い健康で健闘を!固い握手を交わして別れ、帰路につく車中。オレも頑張ろう!道にまけないように!!そう誓った。
それからは年に2,3回、電話やメールでやり取りをする程度の付き合いだ。
そのなかで、道は老いてゆく両親のことを想い、昼間の仕事を希望し、飲食業から足を洗ったことを知った。 オレは、未だうだつの上がらない現状を語り、「オマエは頑張ってるよ。」「戦ってるよ。」と慰めてもらった。
今も、無性に道の声が聴きたくなることがある。 そんなときは大抵心がすり減っている。
1998年の春。二人で授業をサボって、防波堤でタバコをふかしながら、空と海の青さに誓った生きるミチ。 あのとき描いたルートは真っすぐ一本ミチだった。振り返れば右に左に随分と曲がりくねったミチのりだ。未だミチ行きの先は霞がかって一向に見通せない。
なぁ、道。オレたちのミチは何処に向かっているのかな。 大切な家族もいるし、多くはないが友もいる。だけど時々このミチを独行している気分になるよ。 そっちはどうだい?調子はいいかい? こっちは、どうやらとうぶん登り坂が続きそうだよ。
浮き沈みする感情の煩わしさも抱えて、弱い自分を認めて、オレはどのミチこのミチをいくよ。
N.O. - ハンバート ハンバート
shinsuke