賢い人というのは、膨大な知識を知恵へと変換できて、誰にでも解る言葉を選び伝えることができる人。
一方。自分ときたら、片手ですくえる知識を浅知恵に、さも賢く見えるよう表現をこねくり回して、せいぜいこの程度。 力量も無いのに自分はNasばりにリリカルと錯覚し、あれこれ弄って、まったく歪。
しばしば、他者の表現を評価する場合に「しゃらくさい」と切って捨てることがあります。
自分が作っているものもソレと同じでは? とゾッとする時があります。 多々あります。
ある友人が、以前。心身の健康について内容の濃いブログを綴っていました。 時折、覗いては、ほーほーと感心していたのですが、ある時からパタっと更新がなくなり、、メールで連絡を取り合った際に、「ブログ書かんの?」と突っ込んだら、文章と実際の自分との溝に疑問を抱き、それ以降書く気がなくなったと答えてくれました。
非常に、刺さる言葉でした。
そもそも写真にせよ文章にせよ、表現を他者に示す行為は、自己顕示欲と承認欲求の現れで・・・そして、それが満たされることを前提とした、至極エゴで調子をブッこいた考えで成りたっている。と思います。
ブッこいているのだから「しゃらくさい」のは当然と言えば当然。
しかし、そんな中で「しゃらくさい」を感じない表現があることも事実です。
「しゃらくさい」と、そうでない違いは何でしょか?
リアルか否か? 本音かウソか?
いくつか仮説は立ちますが、どれも今一つ確信が持てません。
ただ一つ思うのは、表現と「しゃらくさい」が一蓮托生の関係である以上、大多数の人が「しゃらくさい」と感じているのを自覚して、そのうえで、それはそれと捨て置き、続けることが大事ではないか。ということ。
もしかすると今は「しゃらくさい」と感じている人も、5年後にはどうだろう?更に10年経ったら? 継続の先に、スタイルとなって、やがてクラッシックになるかも知れない。 ブッこいてブッこいてブッこきまくった先に、「しゃらくさい」との決別という奇跡があるかも知れない。
その考えが、また今日も 歪な表現 を描かせるのです。
写楽斎のすゝめ
shinsuke